これがわたしの生きる道

高専女子です。近頃私がいい感じである理由を追跡したいと思います。

許す

 

これを書いている今は夜です。こんばんは。

 

今日は「許す」をテーマに私の幸せ解析をしていきます。 

 

目次

 

許せない人がいる

私はどちらかというと心が広いタイプです。それでも許せない人は存在します。

 

例えば中学の同級生。

執拗にちょっかいをかけてくる男がいたんですよ。腕に油性ペンで落書きしてきたり、細かく折ったシャー芯を消しゴムに刺してきたり… 

ちょっかいの範疇超えてる気もしますよね。とにかく私はこの人が嫌いです。

 

私の中でこのようなタイプの人間は許す価値なしです。

許さないことによって自分の心を保っています。

 

 

どうでもよくなる人もいる。

嫌な思いをしたのにも関わらず、どうでもよくなった代表格は親です。

前回の記事では親が異性関係に厳しいという話をしましたが、許せなかったことは別にあります。

それは「離婚するする詐欺」をされたことです。

中学3年生の時に、卒業後は離婚して引っ越すから県外の高校を選んで欲しいと言われました。確かに、家には離婚届がありましたし、三者懇談の場でも先生の前で公言していたので確実にそうなるのだと思っていました。

私は本当は地元の進学校に行きたかったのですが、県外の寮がある高専に入学しました。

 

そして、結局親は離婚せず、引っ越しもしませんでした。

親はそのことについて「夫婦ならそういう揉め方することもあるよね~」程度の認識だったのが私には許せませんでした。

 

進路を親の希望に沿って変更したのに、その必要がなかっただなんて… 高専に入学してからかなり長い時間、なぜ自分はここにいるのかと悩みました。

それでも今となってはそんなのどうでもいいんです。

 

 

許せないとどうでもいいの違いは何か

中学の同級生は許せないけど親は別にどうでもよい(許せた)。

これは、自分でどうにかできたかどうかにあった気がします。

 

私は初めこそ高専に行ったことをとても後悔しましたが、今では高専でよかったと思っています。それは高専だからこそ出会えた人や、できた体験が今の私を成形したと思えるからです。

 

高専で腐って退学していたら今でも親を許していないかもしれません。これからどうしていくか、というのを真剣に向き合えたことが許すことに繋がったのだと思います。

 

さすがに、ちょっかいかけてくる人がいる環境をどうにかすることは不可能ですもの。

 

 

今思うこと

今思うのは、人間て完璧にはなれないよなーということです。

私も誰かに何かしてしまっていて、許してもらって今生きているはずです。

 

これからも嫌なことを誰かにされると思います。そんな時、私はそれを許していきたいです。許すことで自分も相手も負から解放される気がします。

 

完璧になれないのを分かっているから許せる。

 

もしかしたら許すという行為も愛情なのかもしれないですね。

 

 

許すことも幸せへの一歩というお話でした🌞

最後まで読んでいただきありがとうございます